お茶した時間で振り返る、家庭のカタチ
「うちではこれが当たり前」っていうことが他のお宅ではそうでないことがあります。
高校生の頃友達宅に泊まった時、そこのお宅のお母さんが食器を洗いながら、居間にいる旦那さんに、
「お父ちゃん、愛しているよー!」
と何の恥じらいもなく言っているのを見て、自分の家ではありえない光景にただただ驚いたのを覚えています。
友人曰く、それは日常茶飯事で毎日あんな風に言っているそうです(^-^;
さすがに言われた旦那さんも、客人の前で対応に困っていましたが、微笑ましい光景でした。
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私の実家は、毎日必ず夕飯後に「お茶タイム」がありました。
父は仕事で不在だったので5人でいつも食卓を囲んでいましたが、夕飯を食べ終えると母がご飯茶碗に温かい緑茶を注ぎます。
私は箸を使ってお茶碗に残ったいくつかのご飯粒をお茶に沈めるのが好きでした。
梅干しの種が入っていても構わずそこにお茶を注ぐ母。酸っぱ苦いお茶も楽しんでました。
そんなお茶を飲みながら毎日兄弟たちがたわいもないことを話します。
時間にして20~30分ぐらいだったと思いますが、あの時間から得られるものはたくさんありました。
その時間の大切さについて改めて考えるようになったのは、つい最近のこと。
兄が
「今自分の家族にはそういう時間はない」
と言ったのがきっかけです。
兄の奥さんは、実家で緑茶を飲む習慣がないので、自分の家でも急須からお茶を淹れるということはないそうです。
だから食後にお茶を淹れてみんなで話すこともないし、共働きなので実際そういう時間を毎日とるのも難しいのだと思います。
我が家も急須からお茶を淹れることはほぼありません。
食事をしている時はなるべく子どもと会話をするように心がけていますが、「ごちそうさま」と言ったら、そのままそこに座り続けることはありません。
たかが「お茶」なんですが、当時の私からすると、苦手なものも含め夕飯を食べ終えた達成感みたいなものがあり、そのお茶を飲む時は話に集中できたんです。
一番上の姉とは11歳差で、他の兄弟とも年齢が離れていたので、日中は学校でなかなか遊んでもらえず、このお茶の時間が終われば、各々また学校の宿題をやり始めるてしまいます。
だからお兄ちゃん、お姉ちゃんと話をしたり、学校で流行ってるなぞなぞをみんなで考えたりする時間がとても楽しく貴重だったのです。
結婚して家庭を持ち、初めて気が付く実家の家庭のカタチ。
引き継いでいきたい面もあれば、そうでない面もあります。
そして自分の子どもが大人になって家庭を持った時、子どもたちにとっては今私が築いている家庭が良くも悪くも基準になるはずです。
「毎日当たり前のように過ごしていたあの時間、結構よかったよな」
なんて思ってもらえるものを一つでも多く残せたら…。
一年中、急須から淹れる温かいお茶。
ちょっと復活させてみようかな。